幕末の動乱期、福岡県の小倉と田川を結ぶ金辺峠(きべとうげ)は、小倉藩と長州藩の激しい戦いの舞台となりました。今回は忘れされてしまった小倉戦争、その歴史の1ページにクローズアップしてみましょう。
この歴史的な戦いは「小倉戦争」または「小倉口の戦い」として知られ、第二次長州征伐の一部として繰り広げられました。

小倉戦争の勃発
1866年(慶応2年)、江戸幕府は長州藩討伐のため、第二次長州征伐を開始しました。長州藩の四つの境界で戦闘が行われたことから、長州側では「四境戦争」とも呼ばれています。
小倉口での戦いは、6月17日の田野浦急襲から始まりました。長州藩軍は近代的な装備と戦術を駆使し、重装備の小倉藩軍を圧倒しました。続く7月3日の大里の戦いでも長州軍が勝利を収め、小倉藩軍は赤坂まで後退を余儀なくされました。

赤坂の戦いと小倉城の自焼
7月27日、赤坂で激戦が繰り広げられました。この戦いでは熊本藩軍の奮闘により、小倉藩軍が初めて勝利を収めます。しかし、その後の展開で小倉藩は窮地に追い込まれていきました。
総督の小笠原長行が突如姿を消し、熊本藩を含む諸藩が撤退を開始。追い詰められた小倉藩は、8月1日に小倉城を自ら焼き払い、田川郡香春へと撤退しました。

金辺峠での戦い
小倉城を失った小倉藩は、家老の島村志津摩を中心に軍を再編成しました。彼らは企救郡南部の金辺峠(現在の小倉南区呼野と田川郡香春町採銅所を結ぶ峠)と狸山(現在の小倉南区朽網東)に防衛拠点を築きました。
金辺峠は、小倉と香春を結ぶ重要な峠道であり、戦略的に極めて重要な位置にありました。島村志津摩率いる小倉藩軍は、ここを拠点に長州軍に対して遊撃戦を展開しました。

島村志津摩の奮闘
島村志津摩は、小倉藩きっての「智勇兼備の名将」として知られていました。彼は第一次長州征伐、第二次長州征伐で小倉藩軍の最高責任者を務め、その戦略的才能を遺憾なく発揮しました。
金辺峠での戦いでは、島村の指揮のもと、小倉藩軍は長州軍を悩ませる戦いを展開しました。彼らの奮闘ぶりは、長州藩軍の山縣狂介(後の山縣有朋)を慌てさせたほどだったといいます。

戦況の悪化と和議
しかし、長州軍の攻勢は止まりませんでした。10月には長州軍が平尾台を占領し、小倉藩軍は金辺峠へと後退を余儀なくされました。
さらに、9月2日に他の戦線で休戦協定が結ばれたにもかかわらず、長州軍は小倉藩への攻撃を続けました。これにより長州軍の兵力が増強され、小倉藩はますます苦しい戦いを強いられることになりました3。
戦いの終結
防戦一方となった小倉藩の内部では、止戦の話が出始めました。島村志津摩も、これ以上の戦闘継続は困難だと判断し、止戦の提案を承諾しました。
薩摩藩と熊本藩の仲介により、小倉藩は長州藩との停戦交渉を開始。難航する交渉の末、翌1867年(慶応3年)1月26日に和議が成立しました。小倉藩は小倉城下と企救郡を長州軍に明け渡し、事実上の降伏となりました。
戦いの遺産
この戦いで、小倉藩は長州藩に小倉城の太鼓を奪われました。この太鼓は現在、下関市の嚴島神社に奉納されており、毎年9月第一土曜日に太鼓祭が行われています。
金辺峠の戦いは、約7ヶ月という短い期間でしたが、小倉藩にとっては長く苦しい戦いでした。この戦いは、幕末の動乱期における地方藩の苦悩と、近代化への移行期の混乱を象徴する出来事として、今も地域の歴史に刻まれています。
金辺峠は現在、静かな山道となっていますが、かつてここで繰り広げられた激しい戦いの記憶は、地域の人々によって大切に受け継がれています。この歴史は、日本の近代化の過程で地方が果たした役割と、その犠牲を私たちに思い起こさせる貴重な遺産となっているのです。

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