筑豊戦国戦記 穂波表(潤野原)の戦い

Blog 筑豊見聞録

1578年(天正6年)11月に筑前国穂波郡潤野原(現在の福岡県飯塚市)で起こった戦いが、穂波表(潤野原)の戦いです。この戦いは、大友氏と秋月氏の間で行われました。今回は語られることもほとんどなくなった戦国戦記を、あらためて知っておきましょう。

戦いの場所

穂波表(潤野原)は、現在の福岡県飯塚市にある潤野という地名あたりが考えられます。付近は遠賀川の支流である穂波川流域に広がる平野部に位置しています。この地域は古くから街道と水運が交わる交通の要衝であり、戦略的に重要な場所でした。

合戦の詳細

この戦いの背景には、当時の九州情勢が大きく関わっています。1578年、大友宗麟率いる大友軍は日向国の耳川の戦いで島津軍に大敗を喫しました。この敗北により、大友氏の求心力が大きく低下し、豊前・筑前地域の国衆(国人領主)たちの離反が相次いだ時でした。

この付近を勢力下においていた秋月氏は、この機に乗じて勢力拡大を図ろうとしていました。一方、大友氏は失地回復と離反した国衆たちの抑え込みを図る必要がありました。

激戦という記録

大友軍と秋月軍が穂波郡潤野原で激突し、激戦が繰り広げられたと考えられます。その模様は「筑前国続風土記」や「筑前軍記略」に詳しくのべられており、「穂波表の合戦」または「潤野原の戦」とよんでいる(桂川町史より)。

この合戦に大友軍は五千余人をひきいて、秋月種実の所領であった飯塚、片島方面を焼き払って引揚げようとした。これをみた秋月方は、碓井、扇山、茶臼山、高見山、馬見などの城兵三、四千人をもって追撃した。

こうして両軍は潤野原から土師にかけて、はげしい遭遇戦を展開したが、戦闘は大友方の勝利となり、秋月勢は二百余人の戦死者をだして敗退した。

秋月氏の反撃

一方、一度は敗れた秋月方は、留守部隊に豊前の城井、長野勢をあわせて五千余騎を動員し、再び大友勢を攻撃し、旧井坂を下り、屋山原をでて、土居をすぎ、八木山村の山中でこれをとらえた。今度は秋月勢が優勢で敵の首級四百余をあげたと記録があります。(桂川町史より)

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合戦後の勢力関係と動向

この戦いは、大友、秋月両氏にとって重要な意味を持っていました。耳川の戦いでの大敗北後、大友氏の威信を回復し、離反した国衆たちに対して大友氏の力を示す必要がありました。穂波表の戦いでの勝利は、一時的にではありますが、大友氏の求心力を取り戻す効果があったと考えられます。

しかし、この勝利も大友氏の衰退を止めることはできませんでした。翌1579年には大友氏の重臣であった立花統虎が離反し、1586年には島津氏の北進によって大友氏は豊後(現在の大分県)に追い込まれることになります。大友氏の衰退と秋月氏の台頭、そして後の島津氏の北進という次の歴史へと展開します。

秋月氏と島津氏の同盟関係を重んじた豊臣秀吉は、九州征伐に乗り出し、秋月氏の拠点である益富城の攻城戦となりました。このなかで生まれたのが一夜城で、今嘉麻市では恒例イベントとなっています。

風化されたふるさと筑豊の歴史をお話しました。

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