堀三太郎もまた、筑豊五大炭坑王の一人として知られる実業家です。ここでは筑豊五代炭鉱王の締めくくりとして彼の功績にスポットを当ててみましょう。
三太郎の人となり
直方市の醤油醸造業の家に生まれた彼は、のちに堀家の養子となりました。
三太郎は、醤油の販売業務を通じて、炭坑主との縁ができたとされています。1889年(明治21年)、22歳という若さで小炭坑を持ち、鉱業家としてスタートしました。
この背景には、生家の醤油屋に出入りしていた炭鉱主が彼を見初め、誘い出すようなことも多かったことと、彼も早くから炭坑業に興味を持ち、積極的に参入したいという思いがあったと言われています。こうして、本格的に炭鉱経営へ乗り出します。
彼はやがて、国営の海軍御徳炭鉱の払い下げを受け、これを成功裏に運営することから、盤石な経営基盤を築き上げました。
その経営手腕は多岐にわたる分野で発揮され、炭鉱業だけでなく、銅山や金山の経営にも手を広げました。この一方で、台湾や朝鮮における金山の経営や、台湾製塩会社の経営にも関与し、事業の多角化を図りました。
地域社会への貢献
堀三太郎は、地域社会への貢献にも積極的でした。彼は衆議院議員を務め、地域のインフラ整備や教育支援に力を入れました。また、筑豊貯蓄銀行の頭取として、地域経済の発展にも寄与しました。
堀三太郎の経営哲学は「財産は子孫に残さない」というものでした。彼は、自らの財産を子孫に残さず、地域社会に還元することを重視しました。昭和16年には、自身の邸宅を直方市に寄贈し、これが「直方歳時館」として市民のコミュニティスペースとして活用されるようになりました。
貝島太助とのエピソード
堀三太郎は、貝島太助との親しい関係も知られています。彼らは親分子分、兄弟ともいえるような間柄であり、互いに影響を与え合いました。
二人は、麻生太吉など他の炭鉱王たちと共に、日夜日本の産業を担う石炭について話し合いを行っていたそうです。炭鉱業の発展と安全性向上に向けて、頻繁に意見交換をしていたとされます。
そして、貝島太助と麻生太吉が対立した時には、太助の代理として麻生家に赴いたという話もあります。
一方、「麻生太吉日記」によれば、麻生太吉・堀三太郎らの仲介によって、柳原白蓮が伊藤家から無条件で離籍することをまとめたと言います。
おわりに
堀三太郎は、多角的な事業展開と地域社会への貢献を通じて、筑豊炭田の発展に大きく寄与しました。
その経営手腕は、炭鉱業を超えて広がり、地域社会に対する深い影響を与えました。生家の醤油醸造元で身近に養った実業家としての経営センスや独自の哲学が、彼からは伝わってきます。
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