石炭の採掘を事業化し、その後の麻生グループへの発展に大きな役割を担ったのが麻生太吉。筑豊五大炭坑王の中でも、飯塚を中心とした現在の筑豊地方の発展に影響力を残しています。ここではその具体的なエピソードをみてみましょう。
経済的影響力
麻生太吉は、1872年(明治5年)に目尾御用炭山の採掘を開始し、麻生商店(後の麻生鉱業株式会社)を創業しました。
彼の経営手腕により、麻生炭鉱は急速に成長し、筑豊地域の主要な炭鉱の一つとなりました。
さらに、麻生グループは炭鉱業だけでなく、銀行、電力、鉄道、病院、セメント事業など多岐にわたる事業を展開し、地域経済の発展に大きく貢献しました。
政治的影響力
麻生太吉は、炭鉱業界だけでなく、政治の世界でも影響力を持っていました。1899年から1902年まで立岩村外四ヶ村村会議員を務め、1911年から1925年まで衆議院議員として活動しました。
彼は地域の発展と住民の生活向上を目指し、さまざまな政策提言やインフラ整備に尽力しました。
特に、遠賀川の治水事業においては、他の炭鉱王と共に遠賀川改修期成同盟を設立し、政府に対して治水事業の必要性を訴えました。この活動により、遠賀川の改修事業が実施され、地域の安全と発展に大きく寄与しました。
社会貢献
麻生太吉は、地域社会への貢献にも積極的でした。彼は、教育支援や医療福祉の充実に力を入れました。
例えば、麻生塾の設立は、地域の若者に高等教育の機会を提供し、多くの優秀な人材を輩出しました。また、飯塚病院の設立により、地域医療の向上にも寄与しました。飯塚病院は1918年に「郡民のために良医を招き、治療投薬の万全を図らんとする」という精神のもと設立されました。
麻生太吉は、地域住民の健康と福祉を第一に考え、病院の設立と運営に尽力しました。現在でも、飯塚病院は地域医療の中心として機能しています。
子・孫へと受け継がれしイデオロギー
麻生太吉は、現在の自民党副総裁である麻生太郎の曾祖父にあたります。
麻生太郎は、太吉が築いた事業と政治的影響力を受け継ぎ、麻生グループの経営に携わりながら政治家としても活躍しています。
麻生太郎は衆議院議員として14期務め、内閣総理大臣や副総理、財務大臣などの要職を歴任しました。
森鴎外が記した太吉の横顔
『財界物故傑物伝』(実業之世界社編)には、森鴎外が感じ取った太吉についての人物像が記してある。生々しく伝わってくるところが興味深い。
財界物故傑物伝に掲載された麻生太吉(左端)
麻生は見るからに躯幹雄大、異相で、人呼んで日蓮上人と称したが、その資質もたぐいなく強剛で、いったん思い立ったことは是が非でも貫かずんば止まざる意力を蔵していた。明治以来の財界の偉傑のうち、彼ほどネバリ気と反発力を持った人物は少ない。また彼は天成の善人、金もうけは上手でも不正直ではないだけに短気一徹で怒りを発し、後でみずから悔いるという珍談もあったが、後年は実に円満な長者の風を成した
麻生太吉の功績は、現在の筑豊地方の基盤を築き上げたものとして、今なお評価されています。彼の経済的成功、政治的影響力、そして社会貢献活動は、地域の発展と住民の生活向上に大きな影響を与えました。それは現代にも影響を及ぼし続けています。
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