筑豊五大炭坑王の中で最も影響力があったと考えられるのが、貝島太助です。以下は彼の影響力の度合いを計れるエピソードをまとめたものです。
「筑豊の石炭王」貝島太助の生涯と功績をから、彼の経済的影響力、政治的役割、社会貢献を通じて、筑豊地方の発展を探ってみましょう。
経済的影響力
貝島太助は「筑豊の石炭王」として知られ、明治末期には石炭産出高で三井、北海道炭礦汽船(北炭)、三菱に次いで国内4位を誇る巨大な炭坑経営者でした。
彼の事業は国内エネルギー供給の基幹を担うほどの規模に成長し、日本の産業革命と近代化に大きく貢献しました。ちなみに、筑豊御三家(麻生・貝島・安川)の中でも、総産炭量が最も大きいとされます(貝島2,893万トン、安川2,267万トン、麻生1,367万トン)
政治的影響力
貝島は炭鉱業界だけでなく、政治の世界でも大きな影響力を持っていました。
例えば明治政府の重鎮の一人井上馨(大蔵大臣など要職を歴任)の斡旋によって、三井財閥からの支援を得たなど、政府と筑豊炭田との仲介役のような役割を担った側面があります。
貝島と井上の親交を示すエピソード
- 出会いと支援:
- 貝島は、明治24年(1891年)に井上との出会いを得ます。この出会いは、貝島太助が経営難に陥っていた際に、井上に支援を求めたことがきっかけでした。これを受け井上は、貝島家の経営苦境を心から理解し、近代化への一翼を担う重要性を説き毛利家からの融資を得る支援に成功したそうです。
- 貝島家家憲の制定:
- 明治42年(1909年)、東京府麻布区鳥居坂の井上馨邸で「貝島家家憲」の制定式が行われました。井上は貝島家の顧問として、この家憲の制定に深く関与しました。貝島家家憲は、貝島家の一族が共同事業を円滑に進めるための規範として制定されたものです。
- 三井財閥との仲介:
- 井上は、貝島が三井財閥からの支援を受ける際にも重要な役割を果たしたといいます。彼の仲介により、貝島家は三井物産との関係を築き、石炭の販売体制を強化することに成功しています。
- 家族間の結びつき:
- 井上は、貝島太助の息子である太市と、鮎川義介の妹を結婚させることで、貝島家と鮎川家の結びつきを強化しました。この結婚は、貝島財閥の繁栄を導く一助につながったことが想起されます。
社会貢献
貝島家は教育、医療、民生保養など多岐にわたる分野で社会貢献活動を行いました。特に教育面での貢献は顕著で、現在も貝島育英会を通じて社会貢献を続けています。
私学5つの学校と病院設立、そのための養成所の開設にも尽力しました。
貝島太助が設立した貝島私学のうち、最も有名な私立大之浦小学校は現在、宮若市石炭記念館として利用されています。具体的には以下のようになっています:
宮若市石炭記念館(旧大之浦小学校)
- 昭和49年(1974年)に閉校となった大之浦小学校の校舎を利用して設立されました。
- この記念館は、貝島炭鉱の歴史や地域の石炭産業の発展を展示しています。
- 館内には貝島炭鉱で実際に使用されていた炭鉱道具や坑内模型などが展示されています。
産業の多角化
貝島炭鉱は石炭産業に限らず、コークス工場、化学関連産業、林業、保険会社運営など、多角的な経営を展開しました。これはこの地方の産業構造の多様化に貢献したと言えます。
多角化経営の実態
- コークス工場:
筑豊石炭礦業史年表には、1896年10月に関西コークス(株)八尋工場が鞍手郡西川村に創業しています。これは貝島鉱業の関連事業と考えられます。 - 化学関連産業:
貝島百合野山荘市民の会HPには、「現在も貝島育英会を継続運営中の貝島化学工業㈱はその折の設立で長い歴史を誇り」とあります。これは貝島鉱業が化学産業に進出したことを示しています。 - 林業:
Wikipediaの記事によると、貝島太助の五男・貝島永二が貝島林業を経営していたとされます。 - 銀行設立計画:
直接的な記述はありませんが、貝島百合野山荘市民の会HPの資料に「銀行設立計画」への言及があります。 - 保険会社運営:
貝島百合野山荘市民の会HPの資料には、「現在の興亜損保ジャパンは、中央火災傷害保険として貝島炭砿の傍系会社経営を経て、日産に引き渡されたものである」と記されています。
他の炭坑王との比較
麻生太吉や安川敬一郎も重要な人物でしたが、貝島太助は「炭鉱王」として最も広く認知されていたようです。
例えば、麻生太吉と貝島太助が「格好の話題」となったエピソード(日本の近代化、その礎 筑豊御三家)があり、これは貝島の影響力の大きさを物語っています。
貝島家の事業や社会貢献活動は、太助の死後も長く続きました。現在も続く貝島化学工業株式会社や、かつての中央火災傷害保険(現在の興亜損保ジャパンの一部)など、その影響は現代にまで及んでいます。
このように、貝島太助は筑豊五大炭坑王の中で最も影響力のあった人物だと考えられます。彼の経済的成功、政治的影響力、社会貢献活動、そして産業の多角化への取り組みは、現在の筑豊地方の礎になっていると言えます。
その彼の面影や名残は、今直方市の多賀町公園で感じることもできます。
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