彼は単なる炭鉱成金ではなく、無学ながらも鋭い観察力と記憶力を持ち、人間関係や家庭生活においても複雑な側面を持つ人物であったことが最近の研究でわかっています。
ここでは、彼の多面的な人物像についてさらに深く掘り下げ、より有能な利他的行動による地域づくりを進めた点から、彼本来の人間像に迫ってみましょう。
貧しい環境から成り上がり
伊藤伝右衛門は貧しい家庭に生まれ、読み書きができなかったものの、記憶力が非常に優れており、人を見抜く才能があったと言われています。
この点は、彼が無学でありながらも炭鉱業で成功を収め、さらには銀行経営や衆議院議員まで務めたことを鑑みると、人一倍の努力家だったと考えられます。
知られざる伝右衛門のエピソード
彼が衆議院議員として東京に上京した際、無事に到着したことを地元に伝えるために打った電報が「ブジチャクタンス」(無事着炭す)というものだったそうです。
この「着炭」という言葉は、本来、炭鉱用語で「石炭層を掘り当てた」という意味です。
しかし、この用語の本来の使い方を知らなかった彼は、この言葉を「目的地に着く」という意味で使用してしまいました。
この意味不明な電報の内容が広まり、「着炭代議士」というあだ名が付いた。このような経緯があったと聞きます。彼の人となりを物語るようで面白いですね。
社会貢献活動に熱心だった側面
伊藤伝右衛門は、炭鉱業で得た富を地域社会に還元することに熱心でした。以下のような具体的な社会貢献活動が確認されています。
学校建設と奨学金制度
伊藤伝右衛門は、嘉穂郡立技芸女学校(現・福岡県立嘉穂東高校)の創設に投資しました。また、寺子屋に通えなかった自身の経験から、誰でも学校に行けるようにと伊藤家育英会を創設し、多くの学生に奨学金を提供しました。
地域のインフラ整備
遠賀川の治水事業に尽力し、地域のインフラ整備にも貢献しました。遠賀川改修期成同盟という組織の開設に、麻生太吉ら炭坑主とともに関与し、当時の政府に働きかけました。これにより、10年計画での改修事業が実施され、地域の安全と発展に寄与しました。
文化人としての側面
伊藤伝右衛門は、文化人としての側面も持ち合わせていました。それは以下のことに裏付けられます。
茶道と能楽への傾倒
伝右衛門は、茶道や能楽に深い関心を持ち、その文化を愛好しました。彼の邸宅には茶室が設けられており、文化人としての趣向、嗜みを深めようという姿勢が見られます。
「素性卑しき炭掘り男」と陰口を叩かれることもあった彼は、負けん気の強さがこのような姿勢となっているのかもしれない。
建築美術への関心
旧伊藤伝右衛門邸は、アールヌーヴォー調のマントルピースやイギリス製のステンドグラスなど、当時の先進的な建築技術と美術が取り入れられています。これらの装飾は、彼の美意識と文化への深い理解を示しています。
また、白蓮を迎えるために旧伊藤伝右衛門邸を豪華に改築しました。この邸宅は、京都から宮大工を呼んで細やかな美の技法を尽くしたものであり、できる限りのことをしたいという妻への配慮が伺えます。
白蓮事件で見せる男気
柳原白蓮との結婚は政略結婚として騒がれ、白蓮の駆け落ちという劇的な事件もありました。
このエピソードは、彼の粗野で教養のない炭鉱成金というイメージと、妻の駆け落ちを潔く許す男気という対照的な側面の二つがあります。
伊藤家を出奔した白蓮に向け伝右衛門が残したエピソード
制裁を加えろと息巻く血気盛んなヤマの男達を「手出しは許さん」と一喝して押し止め、「一度は惚れた女だから」として一族にも「末代まで一言の弁明も無用」と言い渡し、事件後は一切の非難も弁明もしなかった。
暗いイメージが付き纏う彼ではありますが、現在の筑豊地方の礎を築き上げた立役者の一人であることは間違いありません。悪役のように物語る声もありますが、実業家として、叩き上げの炭鉱経営者としての男気も感じませんか?
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