一昔前までは家庭で、地域でごく当たり前の料理に「すいとん」がありました。人々のライフスタイルの変化にともない、日常ではあまりみられなくなった家庭料理が、福智町のソウルフードとして見直されています。この背景には世界でも5本の指に入ると呼ばれる炭坑爆発事故「方城大非常」があります。風化されつつある大惨事を次の世代に語り継ぐため、「方城すいとん」に秘められたエピソードとはどんなものなのでしょうか。
方城大非常とは?
1914年12月15日午前9時40分頃、福岡県の三菱方城炭鉱で国内最悪の炭鉱事故「方城大非常」が発生しました。地下約270メートルの採掘現場で起きたこの爆発は、安全灯に付着した石炭の燃えかすが引火し、炭塵爆発を引き起こした。
爆発の衝撃は地上にまで及び、黒煙のきのこ雲が坑口から吹き上がるほどの規模でした。当時の証言によると、「雷が地をはうようにして、一気に吹き上げた」「巨砲10数門を一度に発射したようだ」「8km四方まで響いた」など、その凄まじさを物語る言葉が残されています。
大惨事の実態と規模
方城大非常による犠牲者数は、公式には671人(入坑者667人、救援隊員4人)とされていますが、実際にはそれを大きく上回る可能性があります。一説によると、名簿に載っていない人を含めると1000人以上の犠牲者がいたとも言われています。
当時の方城村の人口約4000人のうち、5分の1もの人々が一瞬にして命を落としました。この惨事は、世界の炭鉱災害の中でも3番目に犠牲者の多い事故として記録されています。
今に伝えられる当時の声
事故当時の様子は、生々しい証言や新聞記事を通じて今日まで伝えられています。「上がったかな」と息子の無事を祈る姑の言葉や、乳児だった息子のために母乳を分けてもらい歩いた妻の姿など、悲劇の深さを物語るエピソードが残されています。
「すいとん」のエピソード – 支え合いの象徴
方城大非常の後、多くの子どもたちが親を亡くしました。この悲惨な状況の中で、地域の人々は具材を持ち寄り、大鍋で「すいとん」を作り、孤児たちに振る舞いました。この行為は、困難な時代における地域の絆と支え合いの精神を象徴するものとなりました。
すいとんの語源と歴史
「すいとん」(水団)は、小麦粉に水を加えてこね、団子状にして汁で煮た料理です[3]。その歴史は古く、南北朝時代から「水団」という語が見られます。江戸時代後期には現在のような形が定着し、庶民の味として親しまれてきました。
関東大震災後や戦時中の食糧難の時期には、手軽に作れるすいとんが多くの人々に食べられました。地域によって「ひっつみ」「はっと」「だご汁」など、さまざまな呼び名があります[3][6][7]。
方城大非常の遺産と現在
方城大非常は、日本の産業発展を支えた炭鉱労働者たちの犠牲の象徴として、今もなお地域の人々の記憶に刻まれています。毎年行われる慰霊祭や学校での特別授業を通じて、この悲劇から学び、安全な社会を築くことの重要性が次世代に伝えられています。
閉山後の方城炭鉱跡は、現在は九州日立マクセルの工場となっていますが、敷地内には炭鉱の遺構の一部が保存され、許可を得れば見学も可能です。近隣の寺院には現在も事故遭難者の墓が残っていますが、既に100年以上が経過し、法要に列席する遺族や関係者の数は年々減り続けています[5]。
「方城すいとん」の復活
2010年代に入り、事故後に振る舞われた「すいとん」は「方城すいとん」として郷土料理に復刻され、福智町主導でPR活動が行われています。各地のご当地グルメイベントへの出店のほか、大非常から100年の節目である2014年以降は、毎年事故のあった12月15日に町内の小中学校の給食で供されています[5]。
この取り組みは、炭鉱時代の支え合いの心と、忘れてはならない町の歴史を象徴する重要な文化的活動となっています。
結びに
方城大非常は、日本の炭鉱史上最悪の惨事であり、世界的にも最も深刻な炭鉱事故の一つとして数えられています。この悲劇は、炭鉱労働の危険性と安全対策の重要性を再認識させる契機となりました。
同時に、事故後に地域の人々が振る舞った「すいとん」は、困難な時代における人々の絆と支え合いの精神を象徴するものとなりました。今日、「方城すいとん」として復活したこの郷土料理は、過去の悲劇を忘れず、地域の歴史と文化を次世代に伝える重要な役割を果たしています。
方城大非常から学んだ教訓と、それを乗り越えようとした人々の強さを、私たちは決して忘れてはいけません。この歴史を語り継ぎ、安全で思いやりのある社会を築いていくことが、犠牲となった方々への最大の供養となるでしょう。
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