地中からのメッセージ 生きていた炭坑跡 原口炭鉱大門坑跡、その宿命とは?

Blog 筑豊見聞録

筑豊地方に300以上あった大小の炭坑、それは今ほとんどが姿を消している。主なものとしては、田川市石炭公園に保存されている竪坑櫓や二本煙突をはじめとする遺構や、飯塚市の目尾炭鉱跡など、各地に点在している状況で往時の面影は少ない。これは、炭坑が軒並み閉山となった後の高度成長期、この地方の住環境整備を目的とした鉱害復旧事業のため、解体となり今では見ることができなくなった。

しかし、復旧事業から免れ、再び日の目を見ることのできた炭坑跡もある。それが今回紹介する飯塚市の原口炭鉱大門坑跡。そこにはどんなメッセージがあるのだろうか。

炭坑遺産、突如あらわる!!

原口炭鉱大門坑跡が発見されたのは2010年ごろで、調べてみると戦後の混乱期にあたる昭和23年に採掘を開始し、その後経営主を転々としながら昭和38年に閉山となったと庄内町誌(合併前の庄内町編纂、その後飯塚市となり今に至る)にはある。

最盛期には約420人の炭鉱夫も含む従業員がいたという。小規模炭鉱とはいえ、事業としてはそれなりの規模である。約26,000㎡に及ぶ敷地は雑木林と化していたが、鬱蒼とした林の中からボタ山をはじめ、コンクリート製の斜坑口や捲揚機台座、選炭場とみられるコンクリートブロックなどが発見された。これらの遺構群は、放棄された当初のままとみられている。

坑道跡や坑道を支える坑木が多数見つかった記事(朝日新聞より)

https://www.asahi.com/articles/ASH7Y7W1WH7YTGPB00T.html

2015年には所有者によって、斜坑入り口付近から地中を掘削し、坑木が等間隔に配置された坑道の様子が明るみとなった。坑道内の崩落防止のために敷設した坑木の様子がみられるのは全国的にも珍しい。2017年には飯塚市の市民団体「大門坑の保存を願う会」が、市に対し4200名分の署名を添え、保存と活用のための要望書を提出した。炭坑の全貌を構内全域にわたって確認できる例はほぼまれで、炭坑によって社会が大きく発展した筑豊にとっては貴重なものである。

二つの斜坑(昇降口や換気口)
巻揚機の台座跡

地中からのメッセージ 原口炭鉱大門坑跡の宿命は?

飯塚市には国重要文化財である筑豊炭田遺跡群の一つ、目尾(しゃかのお)炭鉱跡がある。こちらは筑豊御三家のひとり、麻生太吉(麻生太郎副首相の曽祖父)が開発に着手し、かつ日本で初めて蒸気ポンプを導入するなど近代的炭坑経営の先駆けとして名高い。言い換えれば、筑豊炭田の歴史はここからが始まりともされ、それはつまり近代化を進める日本の原動力ともなったという認識があり、こうした認識が各方面から高い評価を受けている。市はこれを重要視し、その敷地あたる土地を5600万円で購入し、その保存と活用を目指している。

このような動向と比較すれば原口炭鉱大門坑跡は見劣りするかもしれない。しかし、時代も異なる上に規模も違う性格の両者を、一概に比較することは適切ではない。先の目尾炭坑跡は、国の重要文化財として指定されるまで、数年に及ぶ時間と労力、そして資金をかけて調査し、付加価値を高めてきた。こうした部分を原口炭鉱大門坑跡も同様なアプローチでもって、その付加価値を高めていく必要がある。まだまだ知られていない価値が、ここにはあるのかもしれない。

閉山から半世紀を過ぎた現代に、地中から現れたメッセージ。それは現代人の私たちにとって、過去とどのように向き合い、関わっていくのかを投げかけているかのようである。原口炭鉱大門坑跡は、これからどんな軌跡をたどっていくのか…今になって突如現れた過去の遺産、どんな宿命をもっているのだろうか。

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