【神話のなかの筑豊②~飯塚・嘉麻をゆく神功皇后~】

筑豊百景 神話のなかの筑豊

この記事でわかること

  • ショウケ越えと飯塚への第一歩
  • 大分かれと大分の地名由来
  • 稲築の地名由来
  • 筑豊に残る神功皇后の信仰と八幡神
 前回は、仲哀天皇にまつわる話をして、香春町からみやこ町にかけての地名仲哀峠などについてふれた。仲哀天皇が崩御し、その後神功皇后はどのような足跡を残したのか。    仲哀天皇を失った神功皇后は、その悲しみに耽るまもなく朝鮮半島に出征。このとき日本書紀などの記録では、こともあっさりと平定し帰国の途につくと記している。  実は、仲哀天皇が崩御する以前に神功皇后は実は身籠っていた。産気づかないようにするため、お腹に石を抱いてまで渡海し、帰国して出産した。その子が後の応神天皇となる。なんともタイミングのいい話にとれなくもないが…    応神天皇の出生の場所とされているのが、糟屋郡宇美町にある宇美八幡宮。地名の読みにもみられるように、子を「うみ」はたしたことにちなんでいる。    さて、ここからが筑豊に残した神功皇后の足跡。  

ショウケ越えと飯塚への第一歩

 子を産み都への帰路へと向う神功皇后は、筑豊飯塚へと歩む。帰路において筑豊への第一歩となったのが、「ショウケ越え」。現在の飯塚市と糟屋郡須恵町との境界にあたる。赤ん坊の応神天皇をショウケ(今でいう園芸用の箕)にのせて、この峠を越えたと伝わる。 syouke.jpg    ちなみに「ショウケ」は、「宗家(そうけ)」が訛ったものと考える人もいる。天皇家の宗家であった応神天皇にちなんで「ショウケ」と名づけられ、転じてそれは今、園芸用品の名称ともなって使われている。ホームセンター等で見かけたら思い出してもらいたい(参考までに「ショウケ」という言い方は西日本中心に聞かれる言い方で、東日本では「手箕(てみ)」とか「箕」といわれる)。    

大分かれと大分の地名由来

 峠を下ったところで、神功皇后は遠征軍を解散した。このことを「大分かれ」と当時は呼んだ。このことにちなんで、今の飯塚市には「大分(だいぶ)」という地名となり今に活きる。ちなみに現在ここには大分八幡宮があり、境内には後の応神天皇となる赤子の産湯の井戸というのがある。   daibug.jpg   

稲築の地名由来

 さらに都を目指して東へと歩む神功皇后は、嘉麻市稲築あたりに至り立ち寄った。急なことで何のもてなしも用意していなかった人々は、稲の束を敷いて座敷をつくった。このことが「稲築」の地名の由来とされる。飯塚市の稲築地区にあたる。そしてここにも稲築八幡宮という神社があり、神功皇后が奉られている。   inatuki.jpg    神功皇后が残した数々の逸話はまだ続きます。次回はさらに東へ、都への旅はは続きます。

この記事を書いた人

松浦幸市(筑豊百景プロジェクト・経営コンサルタント)

中学高校社会科教職員免許・学芸員資格保有。福岡県田川郡福智町を拠点に、2020年より筑豊地方を中心に現地取材を重ね、訪問した事業所・文化施設は延べ100件以上。一次情報にもとづく筑豊の歴史・文化を専門的な知見で発信し続けている。

筑豊に残る神功皇后の信仰と八幡神

神功皇后の足跡が残る地には、多くの八幡宮が建立されている。宇美八幡宮、大分八幡宮、稲築八幡宮など、筑豊を含む北部九州に点在する八幡宮は、神功皇后と応神天皇への信仰から生まれたものが多い。八幡神は後に武家社会の守護神として全国に広がるが、その源流は筑豊・北部九州にあることを忘れてはならない。

「ショウケ越え」「大分かれ」「稲築」という地名が神功皇后の故事に由来するという伝説は、1400年以上の時を超えて今も地域に生きている。こうした地名にまつわる物語を知った上で現地を訪れると、何気ない交差点や集落の名前が急に輝きを帯びる。筑豊を旅する楽しみの一つが、この歴史の層の厚さにある。

筑豊百景的視点:神話の舞台を歩く

記紀に記された神功皇后の旅路は、現代の筑豊を歩く際のもう一つの視点を与えてくれる。飯塚から嘉麻にかけての地域は、神話の時代から人々の往来があった要衝の地だ。稲築八幡宮や大分八幡宮を実際に訪ね、境内に残る産湯の井戸伝説や社の雰囲気を肌で感じてほしい。

筑豊の神社・仏閣を巡る旅は、炭鉱遺産とはまた異なる歴史の深みを体験させてくれる。神功皇后の物語を胸に刻みながら、飯塚・嘉麻エリアを散策すれば、日本の古代史の一端が身近に迫ってくるだろう。

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