赤レンガの煌き③~筑豊の鉄道・街道にみる~

Blog 筑豊見聞録
嘉麻川橋梁


今から100年ほど前は当たり前に存在していた「赤レンガ」は、今やその数がとても少なくなってしまいました。時の移り変わりとともに、コンクリートとアスファルトが街のあちこちにあふれ、「赤レンガ」が希少となっている。これは、逆に「赤レンガ」の希少性というモノサシでみれば、独特の造形美と輝きを放っていることに気づきます。

筑豊は、炭坑が生み出した歴史と文化が庶民に大きく影響し、それがいまだに人々の暮らしに残っている。産炭地とは今や呼ばれなくなっているにも関わらず、炭坑社会の歴史と文化が受け継がれている。そのひとつが「赤レンガ」。今こそ「赤レンガ」を見直してもらいたい。

嘉麻川橋梁(直方市)

嘉麻川橋梁
嘉麻川橋梁を行き来する平成筑豊鉄道


まずとりあげるのが嘉麻川橋梁(直方~小竹間)。この橋梁が作られたのは明治23(1893)年。橋梁やトラス(中央部にある三角形状枠組み)のは後に改修されたが、橋脚部分のみが開通当時のまま。ということは、120歳にして現役!!


 この前、へいちく(平成筑豊鉄道)が開業120周年記念イベントをおこなったが、ここにそのきっかけがあった。当時の筑豊興業鉄道による直方~金田間の開通は今から120年前。このことを今に残す文化遺産のひとつが嘉麻川橋梁。


 全長221mに及ぶ長大な鉄道橋は、遠賀川にかかる雄大な景観を演出している。今や橋梁も当たり前のようにコンクリートで造られるが、その中にあって120年間ずっとかわらず役目を担っている。直方金田間の沿線もコンクリートの構造物も多くなり、開業当時からの景観からは様変わりしたが、嘉麻川橋梁だけは今もかわらない。

嘉麻川橋梁全景


橋梁の強度が現在と比べ弱いものだったとみられ、橋脚どうしの間隔が狭くなっている。コンクリート橋では、このような間隔では設けられない。このような点は、昔と今の違いを目の当たりにできておもしろい。

少しうんちく話もしましょう。

明治26(1893)年、遠賀川沿いの若松~飯塚間の鉄道が筑豊興業鉄道の手により開通して、水運に代わり短時間に大量の石炭を鉄道で運ぶことができるようになりまして。

しかし、近い将来の飛躍的な貨物の増加に対し、安心できる体制では田川地方の石炭を効率よく運ぶネットワークの構築が急務とされていました。

筑豊興業鉄道は明治26(1893)年に支線を金田に延ばし、金田~伊田間は九州鉄道によって明治32(1899)年に敷設されました。

行橋〜伊田間は豊州鉄道によって明治28(1895)年に開通し、ここに門司・小倉を頂点として若松~直方・飯塚~田川~行橋と筑豊を大きく一周する環状ルートが完成し、筑豊の鉄道網の基礎が出来上がりました。

直方側から見ると中泉からは日焼、大城第一への区間、

信号所として完成した赤池からは赤池炭坑、

さらには金田からは堀川、方城、金田炭坑への各貨物線、

また後藤寺方面には糸田経由で明治三〇年に豊州鉄道が開通、糸田からは豊国への貨物線が分岐した(現在の平成筑豊鉄道糸田線)。

各炭鉱からの引き込み線から集約するように直方駅へ向かう、その途中で必ず通過するのがこの嘉麻川橋梁でした。

内田三連橋梁(赤村)


 また、へいちく沿線上にはたくさんの「赤レンガ」をみることができる。その代表格が、内田三連橋梁(赤村)だ。


豊州鉄道行橋伊田線として、明治28(1895)年に開通した。開通当時からの構造物として、内田三連橋梁があり、文化庁の国登録文化財として、かつ経産省認定近代化産業遺産として評価を受けている。

内田三連橋梁(下流側)

内田三連橋梁は、一風変わった容貌をしている。それは、県道に面した側が切石による整った面を表出している一方で、その反対側は「赤レンガ」の凹凸がむき出したまま。これは、設計当初単線で開業し、交通量の増大(石炭の大量輸送)によって将来的に複線化しようという意図があった。

内田三連橋梁(上流側)

つまり、レンガの凹凸の部分に継ぎ足し、幅員を拡幅して複線化に対応できるようにという設計。ちなみにこのようなレンガの凹凸がむき出しとなる構造は、へいちくの田川線において二十数箇所を確認することができる。また、同じ赤村にある九州最古の鉄道トンネル、石坂トンネル(国登録文化財)も単線であるにもかかわらず、幅が大きいのは複線化を目論んでいたためと言われる。

仲哀隧道(香春町)

仲哀隧道

 一方鉄道以外の交通構造物にも赤レンガがある。その代表格は、香春町にある仲哀隧道(今の仲哀トンネルの先々代)。

 このトンネルは、明治22(1889)年と、今回とりあげた「赤レンガ」の中では最古参。かつ鉄道を通すためのものではなく、あくまでも陸路の往来のためのもの。

ここで不思議な疑問を抱く人もいるかもしれない。それは、なぜ田川から行橋へと至る鉄道を造る際、この仲哀峠にトンネルを造らなかったのか。または、へいちくの田川線が現在のようなルートをとり、赤村~犀川~豊津を経て行橋へと大きく迂回するのか。


それは、明治期のトンネル技術に限界があったことが考えられる。現在の新仲哀トンネルは1キロを越えるもの。仲哀隧道は全長432mで、入口は勾配のきついヘアピンカーブが続く峠道(古来より付近は七曲峠と呼ばれた)を上がったところにある。

鉄道は勾配のきつい坂には不向きで、車輪が滑り駆け上がることができない。また、明治期におけるトンネルは、1キロを越えるものはほとんど見当たらない。このような事情があって、古くは官道として使われてきた、現在の国道201号線に沿うことなく大きく迂回するように行橋にいたる経路が鉄道となった。それが今の田川線。

現在は通行禁止となっている仲哀隧道だが、赤レンガで成形されたトンネル入口は今も見学可能。香春側、みやこ町勝山側ともに、レンガの独特の様式美を見ることができる。なお、七曲峠は桜の名所として、隠れた名所でもある。春の花見の際、ともに見学してもらえれば幸いです。

かなりの長文になってしまいましたが、筑豊の隠れた「赤レンガ」についてふれてみました。以上のような話を踏まえた上で、これらを見学するとその魅力も別な角度から伝わるのではと思います。皆さんの「筑豊」にあらたな理解と再発見を祈りつつ。

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