街道をゆく 筑豊版 

 江戸時代主要五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光道中、奥州街道)に付属する街道(脇街道)の整備がすすめられた。幕府は主要五街道を、脇街道はそれぞれの領主が担うことになった。このころ整備されている街道は、今も当時の面影を残している場合が多い。

 筑豊地方には二つの街道が、今も人の往来や物流の幹線として歴史を刻んでいる。その一つは長崎街道で現在の国道200号線、そしてもう一つは秋月街道で現在の国道322号線、いずれも江戸期からその道筋は大きく変わることなく今にいたっている。これら街道が果たした役割は大きく、この地域の社会の基層となっている。この二つの街道がなければ、今のような地域性とはなっていなかったかもしれない。

 そこでここでは二つの街道がこの地の原型をつくった部分にクローズアップして、今までの筑豊地方の足跡をたどってみよう。

海外へつながる長崎街道

 長崎街道は先ほどの脇街道にあたるが、鎖国体制のもと幕府に統制されていた海外との交易は長崎などに限られたため、重要視されていた。その証は、出島に赴任するオランダ商館長は江戸幕府に定期的に参府し、明治まで約260回を数えたことに伺える。長崎街道を往来した記録はいくつかあるが、中でも元禄四(1691)年に五代将軍徳川綱吉に謁見した、エンゲルベルト・ケンペル(ドイツ人オランダ商館付け外科医)の『江戸参府旅行日記』がもっとも詳しいとして知られる。

 街道は小倉を起点として黒崎・木屋瀬を経て、直方で筑豊地方に入り、飯塚・内野という二つの宿へといたり、これらを後にすると長崎街道でも難所に数えられる冷水峠を越える。その道中の細かなところをみてみよう。

直方町の絵図(『筑前名所図会』より福岡市博物館蔵)

 小倉城近くにある紫川の河口、常盤橋を起点とした長崎街道は、黒崎から南へと転じ、木屋瀬へ。遠賀川を右に眺めながら南下する。街道が小笠原小倉藩から黒田筑前藩へといたる入り口に位置していたのが直方であった。小倉藩と黒田藩、宿命のライバル的存在とでも形容していいくらい、なにかと因縁のあった両藩。こういった条件もあったためだろうか、直方は黒田藩政の初期、支藩として東蓮寺藩(直方藩とも言う)4万石の城下町となっていた。藩主黒田家の中から支藩の藩主を任じ、小倉藩との境界の防衛を担っていたのが直方藩であった。

 外交や貿易上重要な街道にあった点と、水運、陸運ともに交わる地理的条件、そしてライバル的存在であった小倉藩との関係を考慮すれば、黒田藩政がこの地を重要視してのもうなずける。

 このため、もともとは城下町としての性格がどこかに醸し出しているのが直方という町。石高は小さいものの、自国の領内に小さな藩を設置して、藩主と同じ血筋にあたるものを藩主として統治したことは目を見張るものがある。元文元(1736)年に町となるまで城があった直方は、その後宿場町としての性格を帯び始めていく。現在でもその名残を殿町、古町、新町といった地名に伺い知ることができる。殿様のお膝元という一方で、長崎街道という条件を活かしたあきんど達の闊歩が聞こえるようだ。

直方藩の陣屋(現在の直方市体育館あたり)

筑豊最大の繁華街 飯塚宿

飯塚宿(現在のコスモスコモンあたり『筑前国続風土記附録』福岡県立図書館蔵)

 筑前六宿(ちくぜんむしゅく)とは黒田藩領内の主な宿場町。それは黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の六つ宿場。飯塚は、この当時から遠賀川流域でもっとも大きな人口規模をもつと言われてきた。その訳はどこにあるのだろうか…

 それは、香春を通過する秋月街道から分岐する、篠栗街道が飯塚宿で長崎街道と交わる場所にあるのが飯塚宿。そして、遠賀川といえば古くから多数の舟が往来した歴史がある。太平の世、江戸時代は年貢米の徴収に各藩は躍起になっていた。このために利用されていたのが遠賀川でもあった。水運盛んな遠賀川と、人々の往来が頻繁だった長崎街道、篠栗街道の交差する地理的な条件が、飯塚を大きく発展させたのだろう。筑豊最大の人口を擁する「ヤマの街」その母体は、江戸時代に育まれた。今では様変わりした長崎街道沿線の飯塚市内を、いくつか紹介したい。

   オランダ屋敷跡

 宿場町飯塚の魅力を引き出すのは「オランダ屋敷跡」という石柱。これは嚢祖八幡宮から徒歩数分のところにある。小竹方面から幸袋、片島を経て街に差し掛かろうとする住宅街にあり、注意深く見つけようとしなければ見過ごしてしまう。写真のように町の景観の中に溶け込んで、その存在ですら見失われつつある。この石柱には以下のように書かれている。

「江戸時代に長崎街道の飯塚宿が栄えた頃、オランダ人が宿泊した場所だと言われています。江戸に参府するために、飯塚に宿泊した外国人に、オランダ医師のケンペルやシーボルトなどがいます。」

 先述のとおり、江戸時代の長崎は日本で唯一の貿易港として栄えた。ここに来た海外の人々は、江戸にいる将軍への謁見などを求めてくる人もいた。こうした人たちは、長崎から小倉までこの街道を利用していた。しかも、長崎に寄港することができた船の国籍は、オランダ、中国、朝鮮と限られていた。

 「オランダ屋敷」とは、江戸時代はるばるオランダから来た人々が、宿としたり休息を取る場所として存在していた。筑豊の中でも先進的な、国際色のある宿場町だったことを証する。宿場町としては当時珍しく、飯塚宿を語る上でおもしろい。

 このほかにもまだまだ知られざるエピソードがある。この次の話は、今の飯塚で起きたでき出来事とした場合、異例中の異例かもしれない。

オランダでみつかった「長崎屋宴会図」 出典元:日本経済新聞社
飯塚市嚢祖八幡宮近くにあるオランダ屋敷石碑

   片島・幸袋界隈

 先述の「オランダ屋敷」跡(嚢祖八幡宮あたり)が直方方面からの入り口あたり。そこから南へ行くと飯塚本町商店街となり、付近は旧街道の沿線にあたる。かつては南北に細長く、1㌔近い範囲に宿場町は広がっていた。資料は少ないものの、絵図などでそれを確認できる。この絵図と比べると今一部に石碑などがひっそりとあるだけで、当時の面影はほとんど残っていない。近代的な建物が立ち並び、アーケードが整備され買い物客の行き来に利便性が高い。全国どこにでもある典型的な戦後から現代にわたって発展してきた商店街から、少し離れると古めかしい趣のある景観に遭遇する。

 片島や幸袋といった地区には、白壁の商家風の建物が軒を連ねている。道幅はマイカーが当たり前の現代、車での通行にはやや難を感じる道路は、昔の街道、商家が占有していた名残となっている。長崎街道にまつわる記録には、象が行き来したというものもある。時の将軍に謁見するためにはるばる海外から来日した。今となっては幅員の狭い街道を、象が大きな体躯を前後左右しながら、江戸を目指して歩みを進めていたのはさぞ衝撃的なことだっただろう。

 掘り起こせばまだまだ興味深いエピソードが残るのが街道。そして長崎街道は、海外との交易路という性格もあるため、そのエピソードにも他の街道には見ることが少なく、オリジナリティが高い。それではもう少し、長崎街道の魅力に迫ってみよう。

古くからの商家が残る片島の街並み

   天道うんちく話

 飯塚宿からさらに南へ向かうと、天道の町並みへといたる。ここは当時宿場町ではなかったが、それでも古くからの商家が残る。

 この商家、「宇立(うだつ)」が上がっている。

 「宇立」は切妻屋根の隣家との間についた小さい防火壁で、1階屋根と2階屋根の間に張り出すように設けられているもの。本来、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐため造られた。

 江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになる。自己の財力を誇示するための手段として、上方を中心に商家の屋根上には競って立派なうだつが上げられた。

 うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、これが上がっている家は比較的裕福な家に限られていた。これが「生活や地位が向上しない」「状態が今ひとつ良くない」「見栄えがしない」という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられている。細かいところのうんちくだが、地域にある文化遺産でも慣用句に関わるものとして興味深い。

難所前で癒しの時 内野宿

 飯塚から南へと向い、天道を通過すると、内野宿へ。

 内野宿は、筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼ばれたものの一つ。その意味では飯塚や木屋瀬といいた宿場町と肩を並べる存在。今ではひっそりとしているが、当時は人々の往来が盛んだった。

 この宿場町の開発に携わったとされるのが、あの母里太兵衛。黒田節のモデルと言われる名将で時は慶長十七(1612)年、このとき太兵衛は益富城(嘉麻市)の城主だった。

 

 冷水峠や米ノ山峠の往来の休憩や宿泊に利用者が多かった上に、九州諸大名の休泊にも使われた。このため「肥前屋」「薩摩屋」「長崎屋」などの屋号が付いた茶屋があった。

 筑前国内の長崎街道を整備した黒田官兵衛、薩摩(鹿児島)、肥前(熊本)といった諸大名を居城である福岡城付近に近づけないようにするため、長崎街道を内野から飯塚、木屋瀬、黒崎へと導いた。後に参勤交代が行われるようになったことを考慮すれば、官兵衛の先見の明が伺える。策士官兵衛ここにありだ。

 

 内野宿は比較的当時の面影がよく残っている。この付近に良質の石炭鉱床がなかったためか、炭鉱関連大規模開発や、国道建設の影響をこうむることがなかった。こうして内野宿は現在私たちに、江戸期の面影を語りかけてくれる。それは私たちがもっている「筑豊」というイメージとはまた異なっている。

長崎街道一の難所 冷水峠

 内野宿を出て、さらに南に進むと見えてくるのが冷水峠。

 ここは長崎街道の道中のなかでも最大の難所とされ、文化九(1826)年にこの峠を歩んだオランダ人医師シーボルトは「細く滑りやすい山道をよじ登る」と表現している。開拓によって切り開かれた土地はもともと海で、国土の半分以上を占めるオランダ生まれのシーボルトにとっては、山道そのものが歩き慣れず、日本の人々が事もなく通って行くことに驚きを感じ得なかったのだろう。

 冷水峠は、「歴史の道百選」に登録されている文化遺産。この「歴史の道百選」など聞きなれない言葉で、はじめて目にしたという方も多いのではないか?これは、文化庁が平成8年に選定した歴史的街道で、その他の例をあげると世界遺産となっている高野山参詣道や熊野古道もある。ということは、冷水峠はこれらと比肩するものと言える。

 今ではトンネルやバイパスなどの往来が整備され、古道そのものは利用する機会がめっきり減ってしまった。それでも街道を歩くウォーキングや歴史散策などのイベント等で、その魅力にふれる機会もある。びっしりと敷き詰められた石畳は、300年程の年月によって積み重ねられた歴史と、当時の先進技術を肌で感じ取ることができる。深い森林の中でマイナスイオンを浴びながら、いにしえの人々の往来を感じ、またあまり脚光を浴びていない筑豊の文化遺産を、あらためて理解できる場所でもある。

豊臣秀吉も通った秋月街道

金辺峠 知られざる激戦地

 筑豊の主要街道として知られる長崎街道ともに、秋月街道も古くから知られる。今度はこちらの話へと転じよう。秋月街道は、現在の国道322号線に相当する。福岡県を南北に縦断するように、小倉を起点とし金辺峠を越え、田川にいたる。そして嘉麻を経て、八丁峠(嘉穂郡と朝倉郡の境をなす峠)を越え筑後の小京都秋月に入る道筋だ。

 秋月街道、今では知る人も少なくなった。沿線にはその名称も見られなくなってきているが、小倉駅の近くのある交差点には「香春口」という信号の名称がある。これには「なぜ?」と思う人もいるだろうが、これは小倉城の城門のうち香春方面に行く街道入口につけられた地名が、そのまま信号の名称となっているためと思われる。

 この香春口から南へ向かい、宿場町であった徳力、呼野を経て金辺峠にいたる。ここは企救郡と田川郡の境界となっており、山道もやや険しいことで知られる。

 この金辺峠、幕末期に小倉藩と長州藩の戦闘の際、戦場となった場所である。この戦いを小倉戦争と呼ぶ人もおり、田川に住む人々も兵として駆り出された。戦況の思わしくなかった小倉藩は、小倉城に火をかけ、藩内でももっとも内陸部となる田川に移り、徹底抗戦の構えをみせていた。地理的条件を活かして長州藩を迎え撃った小倉藩は、当時藩の家老だった島村志津摩の奮闘もあり戦闘がこう着状態にいたった。近代的な装備で戦いを繰り広げた長州藩に対し、持ちうるすべての知略でもって対抗した小倉藩は不利な条件のもと善戦し、周囲の人々を驚かせたという。その様子を伺っていた肥後の細川藩の取り計らいで和平となり、戦火の拡大は食い止められた。

 その島村志津摩の功績をたたえ、人々が明治19年に造った石碑が今も峠にひっそりと残っている。彼の活躍がなければ、戦火は筑豊にも及んでいたかもしれない。最後まで幕府側に恭順し、長州藩と戦い続けた島村志津摩と小倉藩の兵士は、のちに明治期の元老として重鎮となる山縣有朋から「武士の鑑」と言われたという。こんなところにも知られざる戦争の歴史があり、それは石碑となって語り掛けてくれる。街道には私たちの知らない事実が眠っていることもある。

島村志津摩石碑
金辺峠の旧道

ものづくりの町 採銅所宿

 小倉から田川へ。金辺峠を越えてから最初の宿場であったのが採銅所。

 

 「採銅所」と聞くと知らない方が目にすれば、「珍しい」といった印象を抱くと思う。一方、知っている方は、すぐにイメージされるのが銅。採銅所、その地名の由来はまさしく、昔盛んだった銅の採掘。古代銅の採掘を担った役所の名前がそのまま地名となった。

三ノ岳の銅で神鏡を鋳造して宇佐八幡宮に奉納したことで、八幡神を招き八幡神社になった。それは清祀(せいし)殿という場所でおこなわれ、香春三ノ岳で採掘された銅を使って、宇佐八幡宮に奉納した神鏡をここで鋳造した。最初は720(養老4)年で、1723(享保8)年まで80余度行われたという。

 江戸時代になって採銅所周辺の集落が宿場町として整備され、採銅所村とは別に採銅所町と呼ばれた。元和九(1623)年、小倉藩主から御茶屋の畳の仕様の指示があった記録があり、このころから宿場町としての機能が整い始めたようである。

 ちなみに採銅所は、古代から江戸、明治、大正、戦前まで銅の採掘はあった。その証拠のひとつとして、鉱石を掘り出した坑道、間歩があちこちにある。

 どれほどの間歩があるのか、詳細はまだまだわかっていない。長い歴史の中で何千、何万という人が関わってきているため、すべてを把握するにはまだまだ時間がかかる。古代から明治、大正期まで続いた銅の生産が、鉄道駅開業へとつながったと言っても過言はないかもしれない。今はひっそりとしている採銅所、しかしその名に含まれた意味は意外と深い。

清祀殿
間歩(まぶ)

 かつては田川の中心街 香春宿

 採銅所の町は、南にいけばほどなく香春にいたる距離にある。香春は行橋方面から飯塚、福岡方面への街道(篠栗街道)の交差するところにあるため、周辺地域でも最も大きい町であったようである。

 篠栗街道に相当する道は古くから歴史が刻まれている。奈良時代には豊前国府(現在のみやこ町豊津に所在)と西の都とも言われた太宰府を結んだ古代官道が整備された。この当時から香春岳中心に埋蔵している銅は重宝され、奈良東大寺の大仏にも使用されたくらいであった。

 戦国時代には山口の大内氏と豊後の大友氏が香春岳の城をめぐり争乱を繰り広げた。両氏はともに博多商人の海外貿易による利権を掌中することを目論んだ。門司を経て北から勢力拡大をはかる大内、これに対し南の彦山方面から田川地域を北上する大友の2大勢力は、このためまずは香春を抑え交通、物流、軍の展開において拠点としたい考えがあったことが考えられる。⇒もののふの夢 筑豊戦記

 江戸時代には、慶長六(1601)年小倉藩主細川忠興の弟孝之が香春岳城(鬼ヶ城)へ入り、一時は城下町としての性格を帯びる。しかし、その後は秋月街道に沿うように町が形成され、南北に長い宿場町へと発展した。

 その名残は、今も香春岳の麓にある街並の姿にみられる。写真に示したのはその一部だが、時とともにその姿が変わってしまった部分は否めない。だが、変わっていない部分もあり、ところどころに石碑や今こそ車の行き来がしにくい幅員の道路は、当時の街道の面影があり奥ゆかしい。

 明治になって炭坑による開発が伊田、後藤寺などに及び、田川は炭坑による社会形成がすすめられた。これより以前は、田川の中心的な町と言えば香春だった。郡の役所や警察署なども軒を連ねた。街道を歩くと今一度地域の歴史に気づくことが多い。そしてそれは多くの知られざるストーリーをもっているのである。

神話の里 猪膝宿

 ここは旧国で筑前と豊前の国境近くにある。今の田川市にあり、宿場町としての佇まいは今でも残っている。

 猪膝は宿場として、戦国時代の天正6(1587)年ごろから整備されたらしい。中村国武という人が宿場のない香春〜大隈の間で、通行人が一休みできないで困っているのを聞き、猪膝に宿駅(宿場の宿)をつくった。中村国武という人物、南北朝時代に金国山城(近くの山間にある中世の城跡)の城主となった菊池武盛という武将から10代目の子孫とのこと。

 江戸時代になってからは、小倉藩にとって重要な役割を担うことになる。藩は、猪膝宿の整備をはかり、本陣(大名・幕府役人・藩役人などが宿泊した藩公認の宿舎)を建設。町の中央部にある密厳寺の近くが本陣跡とされている。参勤交代のとき、薩摩藩・熊本藩・柳川藩・久留米藩・佐賀藩などの大名が宿泊・休憩などに本陣を利用したとある。福岡藩との境界にあたるため、領内の警備にとっても重要であった。

 猪膝宿の町並みは「北の構口(かまえぐち)」から「南の構口」までおよそ850m程度「北の構口」は「御旅所」のすぐ近く、「南の構口」は「大刀洗の井戸」のところに一部が残っている。最盛期には旅籠屋(はたごや)が数軒あり、造酒屋・造醤油屋・両替屋・小間物屋・米屋・魚市場・こうじ屋・菓子屋・桶屋・畳屋・鍛冶屋などが軒を連ねたと伝わる。その景観は、今も古い商家風の建物が街道沿いに並んでいるように見受けられる。先ほどの香春宿に次ぐ第二の街としての規模がここにはあった。

 猪膝宿の街角には、伝説がひとつ残っている。それは先述の「大刀洗の井戸」で、日本神話に登場する日本武尊がこの地で持前の太刀を洗ったというもの。事の真偽は定かではないが、この伝説からうか伺えることは太古の時代から人々の往来があったということではないだろうか。余談かもしれないが、秋月街道の沿線には弥生時代より以前の遺跡が多く包蔵されているとも言われ、そのほとんどが発掘調査もされず歴史は闇の中となっている。

 長崎街道が江戸期から開発され人々の往来が生まれたという事実に対し、秋月街道は太古の昔から人々の営みに関与していたという可能性が示唆できる。猪膝宿に残る伝説は、秋月街道の成り立ちを知る上で重要な歴史的資料なのかもしれない。

太刀洗の井戸
猪膝地区に残る商家

国境の要衝 大隈宿

 猪膝宿をあとにすると、豊前の国から筑前の国へと入る。丘陵上り下りしながら峠を後にするとまもなく見えてくるのが益富城だ。ここは豊臣秀吉の軍勢が押し寄せ、一夜城が生まれた場所としても知られる。⇒もののふの夢 筑豊戦記 

 江戸に幕府が誕生し、戦火は収まったように見えたが、未だに隣国どうしの小競り合いは続いていた。ここ筑前と豊前の境界であるこの地も、いざというときの警戒がとられた。益富城には後藤又兵衛と、あの黒田節のモデルともなった母里太兵衛が城主となった。この両雄はともに黒田二十四騎、あるいは黒田八虎に数えられたほどの英傑で、そのお膝元に開けたのが大隈宿ということになる。

 そんな史実が影響してか、大隈宿には造り酒屋が軒を連ねている。

山越えに備え 千手宿と八丁峠

 小倉の常盤橋を基点に、金辺峠を越え香春・猪膝を経て、嘉穂郡へといたる秋月街道は、大隈から千手へと続く。現在の嘉麻市、国道322号線の沿線には、地名とともにここにも当時の宿場町の名残がある。

 

 千手宿は、秋月街道でももっとも険しいともいわれる八丁越しの手前に位置する。山道を行き交う人々の足を休めた場所として賑わった。千手宿に関する記録でもっとも古いものは、寛永三(1626)年に当時の薩摩藩の使者が通行したものがある。

 現在では当時の面影は少なくなっているが、それでも旧大屋家の住宅が目をひく。棟札には慶応元(1865)年の年号が記され、由緒ある商家として知る人ぞ知る文化遺産だ。

 千手宿から秋月方面へと南下すると、目の前に古処山がそびえる。行く手を阻むかのような山容に近づいていくと、じわりじわりと傾斜が急になる。別名「秋月越し」とも言われる八丁越は、標高500mを数える難所。長い石畳が整備され、石橋や休憩所も所々に設置されたと記録がある。近くを経路とする長崎街道の冷水峠と似たような景観が広がる一方で、雨上がりの時には滑りやすいと感じるくらいけ傾斜が厳しい。

 筑前黒田藩が整備した長崎街道は、江戸時代になってからの開発によってできた。これに対し、秋月街道はより古い時代、戦国時代に諸勢力が行き交う主要道として、往来があったとみられる。それを証左するのが千手宿より東北東に ㎞、猪膝宿へと向かう道中にある益富城だ。秋月氏の重要拠点のひとつだった益富城は近年城郭の詳細が調査され、従来認識されていた規模よりはるかに巨大な範囲に、堅牢な防護施設を施していることがわかっている。

 豊臣秀吉もその大軍を行軍させたほど、交通の大動脈として位置づけられたのが秋月街道。それ以前は豊後の大友氏や長州の大内氏、毛利氏などが、博多を目指して筑豊に覇を競った。それは秋月街道の沿線にある山城をめぐる、もののふたちの思惑やそれにともなって生じた度重なる戦闘が物語っている。

 現在の国道200号線にあたる長崎街道は、近年クローズアップされ長崎へといたる貿易交通という華やいだイメージがある。この一方、秋月街道はその歴史的価値を知る人も少なく、長崎街道より古くから人々の往来があり、この意味では文化遺産としての価値を見直すべきかもしれない。

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