​筑豊王の誕生

弥生時代中期の甕棺墓から発見された中国製銅鏡(飯塚市歴史資料館提供)

立岩遺跡出土品の意味するもの

 稲作伝来とともに、日本各地では弥生時代へ。稲作が生活の基本となり、安定した生産性のもと人々の暮らしも豊かに成り始めた。それは人々に少しづつ身分の差となってあらわれるようになっていった。

 弥生時代の中期(今から2200~2000年前)になると、人々の貧富の差が当時の墓からわかるようになる。飯塚市の中心部に位置する立岩遺跡群、この遺跡群の中で中心となるのが立岩堀田遺跡だ。ここからは43基の甕でできた棺が発掘され、その中の10号甕棺墓から前漢式銅鏡6面、細形銅矛1本、鉄剣1本が副葬されていた。これらは現在、飯塚歴史資料館にて見学が可能できる。

 これら金属器は当時限られた人しか入手できず、特に前漢鏡は中国の漢帝国時代のもので、中国でも「王」と呼ばれる位の高い人しか持つことができなかった。それを6面も所持していたということは、この地において権力や信望の厚いそれ相当の人物が存在したことを伺わせる。

 以上のような経緯があり、立岩堀田遺跡の10号甕棺出土品は、地域のクニの成り立ちを示す貴重なものとして、そして日本の歴史を物語る重要なものとして認められ、国の重要文化財となっている。

邪馬台国の時代の福岡 立岩遺跡を中心として

出典元:弥生ミュージアム(吉野ヶ里歴史公園)
石包丁の使い方(出典元:公益財団法人広島県教育事業団)

 この当時の付近は、立岩は上質な石包丁の生産地として知られているのが学会の定説である。遺跡周囲から笠置山の輝緑凝灰岩で 作られた未完成の石包丁が多数発見されている。また、飯塚市内でこれまでに確認された発掘調査から、この石包丁の製作工房跡とみられる遺跡が何か所か確認されている。これらはその裏付けてとして、研究間に理解されている。

 立岩の石包丁は福岡県内をはじめ、広く佐賀県や大分県まで広く流通したと考えられている。この石包丁が、ここに住む当時の人々を豊かに潤し、それは次第に格差を生み出し、そして王の誕生へとつながったと考えられる。

 ちなみに邪馬台国の時代には、「不弥国(ふやこく)」と考えらえているのが飯塚周辺の地域である。不弥国は、『魏志』倭人伝上に対馬国、末盧国(まつらこく・唐津地方周辺)、伊都国(糸島地方周辺)、奴国(福岡市、春日市周辺)と記された次に登場する国で、中国の古代文献上に「国」と記述されていることから、それ相当のコミュニティを形成していたと考えらえれている。

 以上のような経緯があり、立岩堀田遺跡の10号甕棺出土品は、国の成り立ちを示す貴重なものとして、そして日本の歴史を物語る重要なものとして認められている。文献や文字の記録が極めて少ない時代の様子を象徴するのが、立岩遺跡の出土品の数々である。

王塚装飾古墳の世界

王塚古墳の主体部の壁画(王塚装飾古墳館提供)

特別な存在の王塚古墳

 筑豊の古代史を話す上で避けて通れないのが桂川町の王塚装飾古墳ではないだろうか。1934年(昭和9年)9月30日に採土工事中に前方部が削られ、横穴式石室の前室右壁隅が開口し、偶然発見された。開口した石室には壁画が色鮮やかに描かれていたことに驚いた当時の人々は、古代史研究の盛んな京都帝国大学に調査を依頼し、脚光を浴びることになった。

 全長86mに及ぶ大きさの前方後円墳は、規模としては隔絶して大きなものではない。どちらかと言えば、古墳時代後期には日本全国各地によくみられる。しかし、埋葬主体部の石室全面にわたって描かれた壁画は、日本で確認されている装飾古墳の壁画で使われている色は6色(赤・黄・緑・青・黒・白)あるが、そのうち青を除く5色が使われており、国内最多の色彩と言われている。描かれている図像は馬、盾、刀、弓など当時の権威を象徴するかのような武具関係のほか、双脚輪状文、蕨手文、三角文、円文など幾何学的な文様が豊富である。

 全国に600基ほどある装飾古墳のうち、その半数近くは九州に分布がある。特に熊本県とその周辺に顕著な分布傾向が見える。1952年(昭和27年)3月29日に装飾古墳としては初めて国の特別史跡に指定された。それは先述のように、日本ではここにしかない装飾であることが特別に評価されている由縁である。ちなみに出土遺物も重要文化財に指定され、まさしく日本を代表する装飾古墳である。

装飾古墳からみた古代日本の動向

装飾古墳の分布(装飾古墳データベースより)
日本史年表・地図(吉川弘文館発行)

 装飾古墳の分布は日本各地にみられるものの、そのほとんどが九州に集中していることは先述のとおり。装飾古墳とは、もともと大陸や朝鮮半島からの墳墓の形式に影響を受けたものと言われている。

 死生観や天文学など大陸から伝わった学問・思想が、日本列島の人々に影響したのは、装飾古墳の築造より早いと考えられている。いつの時代も海外の先進技術やアカデミックな科学や思想、宗教は、列島に住む人々の羨望の的であったようだ。先にふれた立岩遺跡の青銅製の鏡などは、その典型とも言えるだろう。

 古墳時代後期(6世紀から7世紀にかけての時期)は、大陸や朝鮮半島の動向が政治的にも外交的にも影響していたと考えられ、地域の王とされる人々を中心として独自の勢力を形成する。ヤマト王権との一定の距離を保ちながら…

 九州にある装飾古墳は、前方後円墳であることが多い。ここで注目したいのは、外観としては前方後円形だが、内部埋葬部の石室などは大陸や朝鮮半島の装飾様式を取り入れている。このポイントに装飾古墳に葬られた王の性格が見え隠れする。

 極論かもしれないが、日本オリジナルの古墳という形を外観で取り入れたのは、表面上ヤマト王権に服属する一方で、目立つことない内部埋葬部分は海外の先進技術様式を取り入れる。これは、内面に含みがあるようにも感じられ、当時の政治・外交情勢のあらわれともとらえられる。

 対馬海峡を挟んだ当時の情勢は、上の図のようなもので、このうち加羅地域に利権のあったヤマト王権は、半島諸国からの圧力からの解放と利権の確保を目的に、遠征軍を送ることとなった。それを阻んだのは、筑紫国造(ちくしのくにつくり、国司として王権から任命された)であった磐井。

 彼は筑後地方を中心に現在の熊本、福岡県の南部に勢力を持ち、朝鮮半島の国々の支援のもと、ヤマト王権に反旗を翻した。これは磐井の乱(527年)と呼ばれ、高校の日本史の教科書にも登場する事件(というよりはクーデター?)だ。

 こうした中で王塚古墳は、数ある装飾古墳の中でも際立って絢爛豪華な石室を持っている。細かな点でまだまだ明るみになっていないために、謎に満ちた古墳時代ではあるが、日本史に大きな1ページを刻むことには間違いない。王塚古墳は謎に満ちた日本の古墳時代に、大きな手掛かりとなる貴重な文化遺産であり、古代筑豊の謎を解くためのメッセージでもある。

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