石炭発見から産業化へのプロセス

焚き石の発見と広がり

石炭の発見、それは私たちが思うよりはるか昔から活用されてきた。国内最古の文献記録として、文明元(1469)年のものがある(橋本屋富五郎『石炭由来記』)。それには三池郡稲荷(とうか)村の百姓伝治左衛門が稲荷山という山に焚き木を取りに行った際、枯れ葉を集めて火をつけたところ地面に露出していた黒い岩が燃えたという。

筑豊地方にちなむ記録は、遠賀郡香月村や垣生村、そして天正十五(1587)年の豊臣秀吉による九州征伐の際、香春嶽(香春町)の鬼ヶ城での戦闘から逃れた村上義信が焼ける黒い石をもって潜伏していた話もある。

江戸時代になると、貝原益軒(福岡藩士で学者)が元禄十六(1703)年とりまとめた筑前国続風土記には以下のような記述がある。

「燃石。遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像の処々の山野に有し、村人これをほりて薪代わりに用う。遠賀、鞍手郡に殊に多し。(中略)煙多く、臭悪し。といえどもよくもえて火久しくあり。」

また、鎖国政策のもと来日したオランダ人医師シーボルトの手記にも「冷水を越え内野という処に出て飯塚に向かう。このあたりの住民、地中より黒き石の塊を掘り出して焚く」とある。以上のように室町時代から江戸時代にかけて、石炭が人々に使われていたことがわかる。

石炭の産業化

見方を変えて生産という視点から石炭をみていこう。

『田川郡銀小物成鑑』という台帳がある。これは、貞享三(1686)年から享保元(1716)年まで石炭採掘許可のために生じた手数料の徴収が記録されている。享保年間以後は豊前赤池産の石炭が脚光を浴び、瀬戸内海で盛んであった製塩の燃料として活用されていたようである。

「石炭ある国々にて…(中略)…塩浜に焚はしめし(始めし)は筑前艶崎(津屋崎)にてはしむ。三田尻(山口県中南部地方の地名)東須賀忠左衛門という者、筑前に下り、是を習ひ帰国して、青江浜(岡山市にかつてあった塩田)にて是をはしめ(始め)、…(中略)…木焚きより勝手よき故、惣浜石炭焚きになりしは、寛政年間(1789~1801年)中より専となりしなり。」

(以上『防長塩業史料集』より抜粋)

これを読むとご理解できると思うが、本州へ伝わった石炭焚きが従来の燃料より製塩に適したものであり、その利点が東須賀忠左衛門という人物によって瀬戸内地方へと拡散したとみられる。

文化文政期(1800~1820年代)には赤穂地方にも受け入れられ、瀬戸内地方全域で行われている製塩業に欠かせないものとなった。このことをきっかけに、筑豊の石炭が全国的に注目され、日本史にその歴史を刻み始めた。

もともとは治水対策の一環として、初代筑前藩主黒田長政が着手した堀川(遠賀川の氾濫を防ぐための人工河川)が、運河として活用され五平太船にも似た川ひらたが、米や雑穀の一方で石炭を積み行き来した。この川ひらたにはすでに石炭も積み込まれていた。

明治日本の産業革命が起きるまで、遠賀川は川ひらたの往来が絶え間なくなり、近代化へと突き進む日本をエネルギーから支える国家プロジェクトとして一大産業化することになる。

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