炭坑王の邸宅 貝島六太郎邸(百合野山荘)

Blog 筑豊見聞録
貝島炭礦新菅牟田坑最盛期の様子

宮若市から直方市にかけて、かつて「貝島王国」と言ってもいいような、大規模な炭坑が存在した。明治18(1885)年大之浦炭坑の創業を皮切りに、貝島炭礦株式会社は急速に拡大し、筑豊でも随一の規模となる。その創業者は貝島太助。この弟の一人に当たる人物が、今回ターゲットとなる貝島六太郎で、彼が造った屋敷が百合野山荘とも呼ばれた邸宅である。

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兄弟で目指した炭坑王国 それを象徴するかのような邸宅

貝島家の兄弟は幼少期に家が貧しかったために、丁稚奉公で兄弟が分かれ分かれになってしまった。長男太助が石炭採掘をもって起業しようとした時、六太郎はともに歩むべく兄のもとへと戻った。それから兄弟で苦楽をともにしながら、貝島炭礦は急成長させていった。

その道のりは決して順風満帆なものではなく、幾度も事業運営に失敗したと記録にはある。そんな度重なる苦難を乗り越え、いつしか麻生太吉、安川敬一郎とともに、貝島太助は筑豊御三家と呼ばれるようになるほど事業家としての功績をあげた。

貝島六太郎邸(百合野山荘)出典元 http://fujiaki.mbsrv.net/kaijimasansou.html)
貝島六太郎邸見取り図(出典元 http://fujiaki.mbsrv.net/kaijimasansou.html)

その栄華の象徴的なものとして兄太助が直方市の中心部に3階建ての大豪邸を築き(現在は消滅、現在の多賀神社あたりともいわれている)、六太郎が建てたのが直方市内より郊外に離れた場所にある。

百合野山荘は、現在の宮若市龍徳という地にあり、起工から5年の歳月を費やし明治45(1915)年に完成しお披露目されたという。農業用のため池を見下ろすようなロケーションに、小高い丘陵を活かして庭園が整備されていた。敷地総面積80,000㎡、宅地面積は17,700㎡という、当時でも隔絶した規模の大邸宅である。

建物は一部洋館を模した造りの応接室があるほかは、純和風の建築で邸内への入り口には「毛利門」と呼ばれる門構えまである。総部屋数は20あまり、蔵は間取り図では3つ確認できる。庭園は当時流行りの回遊式で、付近の自然地形とマッチさせるような設計がとられている。展望所もあったとされ、明治から大正期にかけての主力炭坑、大之浦炭坑を眼下に望むように立地している。

あらたな筑豊のシンボルとして

現在宮若市では、この邸宅を活用すべく準備を進めているという。この意味では今後に期待がかかるところだが、その前に筑豊地方に現存する炭坑王の邸宅とその活用にふれてみよう。

まず筆頭となるのが筑豊御三家のひとつ麻生本家(飯塚市柏の森)だ。こちらは麻生太吉が次男太郎(現在の麻生太郎大臣の祖父にあたる)の婚姻の際に新築され、それから数次にわたる増改築を経て現在にいたる。敷地は100,000㎡に及ぶともいわれ、建物は純和風の入母屋造、建坪は880坪と聞く。一般には公開されていないが、敷地内の一角にある麻生大浦荘はひな祭りと秋の紅葉のシーズンに公開されている。

同じく飯塚市幸袋にある旧伊藤右伝衛門邸は、飯塚市の指定文化財であるとともに、庭園は史跡(庭園)として国の重要文化財でもある。ドラマ等でも話題となったことが拍車をかけ、例年数万人規模での来場者が訪れる。活用事例としては先駆的な存在でもあり、飯塚市のあらたな観光名所として知られる。

一方、直方市にある堀三太郎邸は、伊藤右伝衛門と同じく筑豊五大炭坑王として名を馳せた人物の居宅。敷地面積は約3,500㎡、建坪は150坪といわれ他の炭坑王たちと比較すれば小規模ではあるものの、純和風建築として評価は高い。こちらは現在「直方歳時館」として、市民のコミュニティスペースとして活用され、市民に親しまれている。

現存する炭坑王の邸宅でも国内では最大級の大邸宅貝島六太郎邸、ぜひ一般公開してもらいたいところだ。現在は非公開となっているため、画像も希少。ここだけの話ですが…いずれ多くの人々に親しまれる機会が訪れることを期待つつ。しかし、同じ地域のなかに炭坑王の邸宅がいくつかある。このため、その活用には他とは異なる側面を追求する必要もあるかもしれない。また、保存と公開のためにはそれなりの初期投資が必要な部分が否めない。活用計画を立案する際には、かなり魅力に満ちたユニークな取り組みをPRできるかが今後のカギであろう。

筑豊の生みの親 麻生太吉、貝島太助、安川敬一郎

近代化の礎 筑豊御三家

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